欲望の資本主義と人類の知性
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前回のブログ、欲望の資本主義に食われる子どもたち(スマホ利用による子どもの脳への悪影響)について、友人達から思考を進めるための助言をもらいました。
前回は、一方の立場(親・未来の日本の立場)から主張のみを展開したにとどまりましたので、今回はもう少し踏みとどまって思考したいと考えます。
まず、子どもに対してスマホを販売する人、その利用を促進する人がいるのは事実です。そして、その行為は確実に子どもたちの脳へ悪影響を与えています。
この行為について、是非を考えます。
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まず、経済の観点から
合理的判断によって、自組織の資本を拡大し、利益を生み出すことはシンプルに良い行為です。
なぜなら、その行為は他の人の役に立ちます。そして社会は、その行為の積み重ねによって発展してきました。
特に、未開拓の市場を見つけ、そこに既存製品を売ることは、全く新しい製品を発明・開発することと同じくらい高度なイノベーションと言われています。
従って、未成年者に対してスマホを販売することや、ゲーム・動画視聴をさせることは、社会の発展に寄与し、かつイノベーションとして称賛されます。
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続いて、法律の観点から
未成年者も法定代理人(多くの場合その両親)の同意を得て、スマホの契約ができます。その支払いは親が負担することも多いでしょうが、課金等も行うことも可能です。
そして、それらを禁止する法律はありません。
誰に何を売っても自由な社会です。当たり前ではないかと思われるでしょう。しかし、例えば酒やたばこは未成年者の使用・未成年者への販売が規制されています。
未成年者のスマホ使用を法律で禁止・制限するかどうかは、私たち国民次第です。
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最後に、倫理的観点から考えます
倫理は、道徳とは違います。そしてもちろん法律とも違います。
個人個人にその判断が委ねられます。個人の中にある善悪の判断、どのような行いが徳が高いか…
私の倫理感覚としては、例えばソフトバンクに、
「未成年者への悪影響が懸念されるため、我社は自主的に、未成年者へのスマートフォンの販売を控えます」
くらい言ってほしいです。
この発想が、徳治経営です。
ちなみに、もしソフトバンクがそう発表したら、私はそんなソフトバンクを応援するために、auからソフトバンクに乗り換えます。
このような行動は、市民が企業を育てるという現代の流れに適合しているようにも思います。
資本主義社会を次のステージへ進めるためには、市民が賢くなるしかないと言われていますね。
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では、企業が自らの利益よりも他者の(ここでは子どもの)利益を優先することは実現されるのか。
ヒントになりそうなエピソードが、ここ滋賀県にあります。
400年前の話ですので、資本主義社会とは異なりますが示唆に富んでいます。
それは、近江聖人と呼ばれた中江藤樹先生のエピソードです。
中江藤樹先生は、病の母の側にいるため藩の職を辞そうとして、結局脱藩することになります。
その後、近江に帰り、日々の収入を得るため酒の販売を始めます。また私塾も開きました。
その酒の販売の仕方が次のようなものでした。
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その日の畑仕事を終えた農民が、酒を買いに来ます。
中江藤樹先生は、一人ひとりからその日の仕事の話を聞き、その労働に見合った量の酒を販売します。
たくさん売り上げることなど、もちろん考えません。その人に販売すべき量を販売するのです。続いて、塾での教育がその村に浸透すると、酒の販売を無人販売とします。
農民たちは、自分で自分のふさわしい量を考え購入します。そして、無人の販売所に、料金を納めます。
月末に、中江藤樹先生が酒の販売量と売上金額を確認して、ずれがあったことは1度もなかったと言われます。また、この村では、落し物が持ち主のもとに返らなかったこともないと言われます。
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このあたり、世界から称賛される、日本人の徳の高さに通じますね。
もう一つ円福寺での老子のたとえ話を紹介します。こちらは有名ですね。
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確かにあの世には地獄もあれば極楽もある。しかし、両者には想像していたほどの違いはない。
ただ一つの違いは、そこにいる人たちの心なのだ。地獄にも極楽にも、同じ大きな窯がある。そこでは、うどんが煮えている。
ところが、うどんを食べるには一苦労。長さが1mもある長い箸を使うしかない。地獄に住んでいる人はみな、自分が先に食べようと我先にとうどんを掴みますが、箸が長くうまく口に運べない。
しまいには他人のうどんを奪おうとして争いになる。だれもうどんは食べられず、飢えて痩せている。一方、極楽に住んでいる人は、「あなたからお先にどうぞ」と、相手に食べさせてあげる。
そうすると「では、お返しに」と、相手が自分に食べさせてくれる…
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私たちの社会は、地獄とそっくりではありませんか?
まず自分が得をすることを考える。でもうまくいかない。他人が羨ましい。
もっと欲しい、もっと楽をしたい、もっと楽しいことを…
資本主義社会は、不足した社会と言われます(見渡せば物であふれているのに!)。
新しいアイフォンがほしい、新作のコートがほしい、もっと収入がほしい、もっと売り上げを上げろ、、、
だれもかれもが飢えているのです。
(その欠乏・欲望が社会発展の原動力でした。これからは、欲望ではなく徳によって社会を発展させるということを稲盛和夫先生は仰っています。例えば、GDPは変わらなくても、その中身は新しいビジネスが起こり新陳代謝が行われていく社会…。その原動力は「純粋に他の人の役に立ちたい」といったものです。)
一方で、極楽と同じような出来事も見られます。
私は、そこに人類の次の社会への光を見ます。
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子どもの利益を優先するように企業・情報発信者をコントロールするには?
法によって規制するという可能性を上述しました。
法の本質は、強制力を伴ったルールです。
強制力とは、罰則のことです。そして、その罰則を実現するため背後にある武力(警察・軍隊)です。
(当然、法律を守る理由は罰則を受けるのが嫌だからだけではありません。それでも本質は罰則にあります。)
このように書きますと、法(強制されるルール)にしなければ従わないのは、大変幼稚だと感じませんか?
まるで、放っておくと子どもが勉強しないので、罰として「勉強しないとお菓子抜き!」と言っているようです。
様々な文脈で、人類はいまだ幼年期と言われます。
今回の思考の文脈でいえば、資本の極大化を目指し、その手段として自身の利益を考える経済体制も、武力を背景に強制することでしか人を導けない法も、幼稚です。
企業が徳治経営に目覚め、市民がそれを後押しする。
その元は、個人個人の倫理意識・徳の高さにあります。
そして、実現の唯一の方法が、教育です。
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今私たちになにができるのか?
話を戻します。前回以下のような例を挙げました。
・学割といって、早くからスマホを持たせて青田買いを狙う通信会社
・ゲームに夢中になって、たくさん課金してほしいゲーム制作会社
・アプリをダウンロードしてほしいネット産業関連会社
・閲覧数、いいねが欲しいユーチューバーやSNSの民
彼らは、子どもに対する悪影響を考え、自主的に制限をかけなければなりません。それをせず、子どものうちからたくさん利用してもらい、大人になっても利用してもらおうなどと考えているとしたら、
その行為には大義がありません。徳の低い行為です。
欲望の資本主義社会を次のステージへ進める唯一の方法である教育。教育には時間がかかります。企業や情報発信者が目覚めるまでは今しばらく時を要します。
スマートフォンの利用による子どもの学力への悪影響を避けるべく今すぐ行動できるのは、ご両親しかいないのです。